浦潮だより:榎本武揚
令和7年5月29日
浦潮だより:榎本武揚
令和7年5月29日
今年5月7日は、樺太千島交換条約(サンクトペテルブルク条約)が署名されてからちょうど150年でした。日本側署名者は、初代の駐ロシア特命全権公使・榎本武揚です。江戸時代末期、榎本はオランダに留学して船舶運用術や化学、国際法を学んだ幕臣でした。戊辰戦争では旧幕府軍を率いて北海道・函館の五稜郭で最後まで戦いましたが、後に明治政府の文部大臣や外務大臣を歴任するという数奇な運命をたどった人です。
安部公房は、榎本が降伏後2年半を獄中で過ごした時期を素材にして「榎本武揚」という戯曲を書いています。榎本が牢名主になって囚人仲間に西洋科学を教えつつ、世評を気にせず飄々と自説を説く姿がコミカルに描かれているのですが、どこか謎めいた感じがします。


さて、敵将だった黒田清隆の助命運動により釈放された榎本は、北海道開拓に尽力した後、初代の駐ロシア特命全権公使としてサンクトペテルブルクに赴任し、樺太千島交換条約をまとめます。実は、1875年の条約調印の次に榎本が実現したのが、1876年のウラジオストク貿易事務館の開設でした。そう、当館の前身です。その建物は1916年築の旧総領事館建物と同じ場所、アドミラル・フォーキン通りとオケアンスキー大通りの交差点にあったそうです。
開設からわずか2年後の1878年夏、ウラジオストク貿易事務館は、榎本を救った黒田清隆・北海道開拓長官(当時。後に総理大臣)の訪問を受けます。黒田訪問団は北海道の物産を携えて貿易の可能性を探りに来たのでした。同じ頃、初代駐露公使の任務を終えた榎本も、シベリアを横断してウラジオストクに立ち寄りました。当時のウラジオストク貿易事務館はさぞ忙しかったことでしょう。黒田が数日間滞在してウラジオストクを去った後、訪問団の一部は榎本の到着を待って、一緒に帰国したそうです。北海道とロシアを舞台にして、榎本と黒田の心の絆が感じられるエピソードです。ちなみに後日、榎本は黒田の葬儀委員長を務めました。
最近、もう一つ歴史との出会いがありました。私の散歩コースになっている公園には海に面した砂浜があり、天気の良い週末は子供達のはしゃぎ声で賑わうのですが、説明パネルによると、1974年、この公園に隣接するサナトールナヤ駅において、ブレジネフ・ソ連書記長とフォード米国大統領の歴史的会談が実現したそうです。今の季節は新緑が鮮やかで、アムール湾の眺めも美しい場所にありますが、とてもちっぽけな駅です。超大国同士の首脳会談のために、当時どれほど大がかりな準備をしただろうと想像しながら歩いています。

公園にある小熊のモニュメント

散歩コースの公園

公園にある小熊のモニュメント

散歩コースの公園