浦潮だより:アドミラル

令和7年7月8日
チアグループの応援

浦潮だより:アドミラル

 令和7年7月8日

今回は、アドミラル(提督)にまつわるお話を3つご紹介します。

今日のウラジオストクで「アドミラル」といえば、地元のプロ・アイスホッケーチームのことです。このチームが属するコンチネンタル・ホッケー・リーグ(KHL)は、ロシア・ベラルーシ・カザフスタン・中国で構成され、北米のナショナルホッケーリーグ(NHL)に次いで世界で2番目にレベルが高いそうです。
本拠地のフェティソフ・アリーナでは、プレーが中断する度に繰り広げられるチア・ダンスと、観客の「アド、ミー、ラル!」という大歓声で盛り上がります。チームのオフィシャル・キャップをかぶっていると、地元のファンから大変優しく接してもらえるので、いつも重宝しています。

マカロフ提督像
次に、ウラジオストクの数ある銅像の中で、ひときわ私の興味を惹くのはマカロフ提督像です。1904年に太平洋艦隊司令長官に就任したロシア海軍屈指の名将でしたが、日露戦争の際、座乗していた旗艦「ペトロパブロフスク」が旅順沖で機雷に触れて爆沈し、戦死しました。日本でも英雄として尊敬を集めていたようで、当時、マカロフ提督の死を悼み、詩人の石川啄木が詩を残しています。
海洋研究にも多くの功績を残し、部下に慕われたマカロフ提督を記念して、当地の太平洋高等軍事海洋大学にはその名称が付けられ、長く記憶に刻まれています。


 
さて、旅順の海戦で戦功を挙げ、聖ゲオルギー勲章を授けられた海軍軍人の中に、アレクサンドル・コルチャークがいます。10月革命後の内戦で、白軍の総司令官としてボリシェビキ政権と戦いました。日露戦争の際に旅順で負傷し、長崎の捕虜収容所で4ヶ月間を過ごすなど、日本と縁があった人です。2月革命でロマノフ王朝が崩壊した後は臨時政府に帰順し、訪米しますが、ロシアに戻る途上、横浜港で10月革命の報を受けます。それから2ヶ月半の日本滞在中、様々な計画が話し合われたことでしょう。結局、彼は日本からシベリアに戻ってボリシェビキとの戦いに加わり、臨時全ロシア政府の最高執政官まで担ぎ上げられますが、敗北。1920年2月にアンガラ川のほとりで銃殺刑に処されました。
 
コルチャークとティミリョーワの写真
コルチャーク騎乗馬の蹄鉄
先日、意外なところでコルチャークの肖像を見つけました。老舗のベルサイユ・ホテル一階にある食堂「ニ・リダイ(泣かないで)」で注文の列に並んでいる時、コルチャークとその愛人のアンナ・ティミリョーワの写真が壁に掛かっていることに気づいたのです。コルチャークが騎乗していた馬の蹄鉄も飾ってありました。そんなわけで、映画「アドミラル」を思い出し、ドラマ版全10話をじっくり観てみました(邦題は「提督の戦艦」)。
 
 
主人公のコルチャークとティミリョーワのラブ・ストーリーは史実に基づいています。二人が1915年に初めて出会ったのは、当時ロシア領で海軍基地のあったヘルシンキ。二人とも既婚者で息子がいたのですが、すぐに心が通じ合い、革命の混乱の中でも手紙のやりとりを重ねて支え合います。ある解説によると、コルチャークが1918年にロシアに戻る前、二人は東京で再会したそう。その後、シベリアでコルチャークが戦っている間、ティミリョーワはずっと行動を共にしました。彼女はコルチャークの死後も約37年を収容所で過ごしますが、1960年に名誉回復され、82歳で亡くなるまで、晩年はモスクワで暮らしたそうです。

ドラマでは、主役の二人のみならず、コルチャークの妻、ティミリョーワの夫、息子達が激動の時代の中で、必死に、誠実に生きようとする姿が描かれています。運命は実にドラマティックです。