浦潮だより:曠野の遺跡

令和7年10月17日

浦潮だより:曠野の遺跡

 令和7年10月17日
 

安部公房は、奉天(現在の瀋陽)について、次のように書いています。
「私が育った奉天というところは、あの殺風景な満州の中でもとくに殺風景な町である。(略)ほこりっぽく乾いた、樹木の少い町。流れの定まらない黄色くにごった河。象徴的にそびえている給水塔。町の南にひろがった小さな砂漠。青い、ギラギラしたとほうもなく広い空。その空におしつぶされたような黒っぽい煉瓦の家並。(略)それでも、その殺風景さにかえって心ひかれるとしたら、それはやはり故郷であるためだろうか。」(「奉天―あの山あの川」」)

瀋陽の給水塔
長らく、彼の描写した給水塔とはどのような形状だろうかと想像を巡らせてきましたが、先日の瀋陽出張で遂に自分の目で実物を確かめることができました。人口960万の瀋陽の街中に、まるでローマ遺跡のような存在感でそびえています。大都市の忙しい日常の中に埋もれつつも、かつての満州の名残を留めていました。
沙河会戦の記念碑:日本
沙河会戦の記念碑:ロシア
瀋陽では、街の南方に車で40分ほどの場所にある日露戦争の記念碑も訪れることができました。1904年10月の沙河会戦の戦場跡にあります。二つの小高い丘の一方に日本軍、他方にロシア軍の記念碑が建っていました。記念碑まで登ってみると、周辺一帯が遠くまで見渡せます。この場所で、大山巌大将の率いる日本軍12万と、アレクセイ・クロパトキン大将の率いるロシア軍22万が激突し、双方合わせて6万人以上の死傷者が出たそうです。かつての激戦地も今は一面のトウモロコシ畑。農家の人々が秋の収穫に精を出していました。
 
旧満鉄家族寮の中庭
旧満鉄独身寮の内部
瀋陽に向かう途上で立ち寄った大連では、ロシアが建てた旧ダーリニー市庁舎(大連の名称はロシア語で「遠い」を意味するダーリニーに由来します)とともに、旧満鉄社員家族寮と独身寮が印象的でした。いずれの寮にも現在は中国の人々が暮らしています。近くにトラックが乗り付けて、活き蟹販売の呼び込みを始めると、すぐに人だかりができました。ちょうど蟹のおいしい季節だそうです。今を生きる中国の人々の生命力を感じました。


旧ダーリニー市庁舎
 
今回、遼寧省在住の研究者の方々とじっくり意見交換を行うこともできました。遼寧省の状況について様々な話を伺いつつ、国と国との関係がいかなる状況にあっても、知的交流を維持していくことは大切だという点で完全に意見が一致しました。今回お会いした先生方の参加も得て、いつの日かウラジオストクで日中露韓の有識者会議が実現すれば素晴らしいだろうと想像しています。      
T.M.