聖母カトリック教会

令和8年4月29日
フィリピン製のパイプオルガン
ステンドグラス

浦潮だより:聖母カトリック教会

 令和8年4月29日
 

金閣湾を一望する丘の上に、1908年に建設が始まり、1921年に完成した聖母カトリック教会が建っています。ネオゴシック様式の赤煉瓦造りの教会内部に入ると、ステンドグラスの光とパイプオルガンが静謐な雰囲気を醸し出しています。子供の頃、毎週日曜のミサに通っていた記憶に動かされて、この教会のミロン・エッフィング神父をお訪ねしました。
 


聖母カトリック教会

ミロン神父は米国インディアナ州生まれの85歳。ミロン神父の父君はアメリカの冷蔵庫工場に務めていたのですが、第二次大戦の時、シベリアで胴体が製造されていたソ連の航空機用の翼の製造に携わったことから、よく家族にロシアの話をしたそうです。 その影響で、ミロン少年はロシアに興味を持ち、数学やロシア語を学びました。ソ連時代、ウラジオストクの聖母カトリック教会は国家に接収され、公文書館となっていましたが、ソ連崩壊後の1991年にカトリック教会に返還されました。ミロン神父はその時期にウラジオストクに赴任し、以来35年に亘って当地で活動しておられます。


18世紀のポーランド分割によってポーランド領の一部が帝政ロシアの支配下に置かれて以降、多くのポーランド人がシベリアや極東に移住しました。ウラジオストクの開発にも、多くのポーランド人が携わり、その人々の信仰の中心としてカトリック教会も大切にされていました。現在は、当地在住のベトナム人信者、アジアや南米からの留学生達が集います。毎週金曜日の留学生の会合には、多い時で約40人が出席し、英語、ベトナム語、スペイン語など、多彩な言語で語り合っているそうです。
スリヴォフスキー司教
さて、ミロン神父とお会いした部屋には、カロリ・スリヴォフスキー司教の写真が飾られていました。スリヴォフスキー司教は1912年にウラジオストク教区に赴任しましたが、ロシア革命後に聖母カトリック教会が閉鎖されると、郊外のセダンカに幽閉され、1933年に失意のうちに亡くなりました。かつて墓標のあった場所は、アムール湾を渡る自動車橋のたもとにあります。ミロン神父のお話によると、スリヴォフスキー司教が幽閉されていた木造の家には、その直前まで日本の将校が住んでいたそうです。もし当時の建物の写真が見つかれば、復元したいと話しておられました。
ヴィテプスクの街並み

スリヴォフスキー司教は、1847年にヴィテプスク市(現在はベラルーシ領)で生まれたポーランド人でした。スリヴォフスキー司教が生まれた当時、ヴィテプスクはロシア領でした。また、かつてウラジオストク教区を管轄していたモギリョフ教会も、現在のベラルーシにあります。西のベラルーシと東のウラジオストクは、カトリック教会でつながっていたのですね。

井上紘子さんのコンサート案内
復活祭コンサートの後で

もう一つ、ミロン神父が熱心に語ってくださったのは、ロシア革命後の内戦の混乱期に、日本赤十字社が760人以上のポーランド人孤児を日本に受け入れ、保護したエピソードでした。ウラジオストクのポーランド人コミュニティが創設した「ポーランド人孤児救済委員会」の代表が東京に渡り、藁にもすがる思いで孤児達の苦境を訴えたところ、日本赤十字社が速やかに受け入れを決定し、1920年から東京と大阪の施設で手厚く保護したそうです。東京では、貞明皇后(大正天皇の皇后)が行啓され、ポーランド孤児達を慰問されました。皇后は、「この中で一番幼い子供は誰ですか」とお尋ねになり、当時の皇室儀礼を踏み越えて、歩み出た子供の頭を優しく撫でられたそうです。ミロン神父は、その時の様子を、まるで自分の目で見てきたかのように生き生きと話してくださいました。
 

ミロン神父にお会いした翌日、偶然にも聖母カトリック教会で開催された井上紘子(いのうえ・ひろこ)さんのオルガン・コンサートに招待していただきました。大阪出身の井上さんは、モスクワ音楽院ピアノ科在籍中にオルガンと出会い、カリーニングラード州立フィルハーモニーで長年専属オルガニストを務めるなど、各地で活躍を続けておられます。バッハなどのヨーロッパの作品とともに、日本の宮城道雄(みやぎ・みちお)、柿沼唯(かきぬま・ゆい)の作品も演奏してくださいました。時代を超えて、日本、ヴィテプスク、カリーニングラード、ウラジオストクとつながるエピソードに、驚くばかりです。

T.M.