浦潮だより:戸泉米子

令和8年7月13日
「リラの花と戦争」ロシア語版
現在のスヴェトランスカヤ通り: 「リラの花と戦争」に度々登場

浦潮だより:戸泉米子

 令和8年7月13日
 

海岸沿いの書店「イグラ・スロフ」(「言葉遊び」の意)には今、戸泉米子(といずみ・よねこ)さんの回想録「リラの花と戦争」の再版本が山積みで売られています。長らく読みたいと思っていたのですが、日本語版がなかなか手に入らないので、思い切ってロシア語版を読みました。1920代・30年代のウラジオストクの描写を現在の街並みと重ね合わせながら読むと、イメージが大きく膨らみます。私の想像を遙かに超えた、激動の人生の記録でした。                                                                    

アルセーニエフ博物館の展示: 1900年代の日本軍礼服
戸泉さんは、1921年、9歳の時に、ロシア人と結婚していた叔母の誘いで夏休みをウラジオストクで過ごし、この街が気に入って当地の日本人学校に転入。1922年10月にシベリア出兵の日本軍が撤退すると政治情勢が一変しますが、叔父の助けもあって極東国立大学教育学部ロシア語学科を卒業し、浦潮本願寺の住職と結婚しました。しかし、1936年に日独防共協定が締結されたことを受けてビザが更新されず、37年にやむなく浦潮本願寺を閉鎖して帰国。その後、陸軍の命令によって夫が関東軍情報部で働くことになり、満州の延吉で約6年を過ごします。1945年にソ連が対日参戦し、夫は11年間にわたってシベリア抑留。戸泉さんは幼い子供6人を連れて避難生活を生き抜こうとしますが、食糧不足のために2人の子供が命を落としてしまいます。
浦潮本願寺跡記念碑
浦潮本願寺跡記念碑
ソ連が崩壊し、1992年以降ウラジオストクを度々訪問する戸泉さんが、今、私たちのお付き合いしているヴァレンティナ・ブーラヤ対日友好協会会長やゾーヤ・モルグン極東連邦大学教授と出会うシーンもあり、現在まで綿々と重ねられてきた交流の重みを実感しました。(ちなみに「リラの花と戦争」ロシア語版は、モルグン先生による翻訳です。)戸泉さんは、2009年に97歳で亡くなられました。彼女の発意で建てられた浦潮本願寺跡記念碑を、当地の方々が大切にしてくださる背景について深く知ることができました。
浦潮本願寺跡記念碑
浦潮本願寺跡記念碑
敗戦後の苦難や捕虜収容所の通訳としての体験に関する記述は読んでいて胸が痛くなりますが、国籍や地位に関係なく、その人の悩みや苦しみに寄り添おうとする戸泉さんの姿勢は、人々の心を動かす力があります。日本人であっても、ロシア人であっても、中国人であっても、戸泉さんが出会う人々には良い人もいれば悪い人もいます。態度の乱暴な人であっても、その背景にある悩みまで理解しようとする戸泉さんは、戦後の混乱と相互不信の中で、誰からも頼られる存在であったことでしょう。私がとりわけ心を惹かれたのは、戸泉さんの学生時代から折に触れて偶然に出会い、彼女を助けてくれるボリス・スタリノイというロシア人です。「彼が日本人だったら、結婚していたかもしれない」という独白は、彼女の生涯で、ボリスさんがいかに大きな支えであったかを感じさせます。ボリスさんにとっても、彼女は同じように大切な存在だったのかもしれません。
戸泉さんが日露関係の発展を期待した1990年代は去り、今の私たちはまた新しい歴史のページにいますが、積み重ねられてきた心の交わりが、次の世代に受け継がれていくことを切に願っています。
T.M.